おはようございます・こんにちは・こんばんは。
仏光です。
私たちは日々 生きる中で「失うこと」を経験します。
大切な人を亡くす。
仕事を辞める。
仲間との別れ。
あるいは、若さ・体力・信頼・居場所
年齢や状況に応じて その「喪失」はさまざま。
それらを経験するたびに
心がギュッと締めつけられるような感覚を覚えますよね。
「どうして自分ばかりが、こんな目に遭うのか」
「もっと早く気づけばよかったのに」
「もう二度と、元には戻れない」
こうした嘆きや後悔が 胸の奥底に積もっていくと
やがて生きること自体がつらく感じられてしまうものです。
けれど お釈迦さまは こんな風に私たちに語りかけてくれます。
「生きるということは
失いながら得ていくこと それを忘れてはいけない。」
仏教では 「この世はすべて“無常”である」と教えます。
生まれたものは必ず老い・病み やがて死んでゆく。
出会いがあれば 別れがある。
得たものは いつか手放さねばならない。
この「無常」を 悲しいものとして捉える方も多いでしょう。
けれど お釈迦さまは
それを単なる「苦しみ」とは教えません。
むしろ無常こそが人生の真理であり
だからこそ人は気づき・成長し 深まっていけるのだと説かれたのです。
例えば、木の葉が落ちる秋。
その「落ちる」ことは、一つの終わりでありながら
また新たな命の循環でもあります。
花が散るからこそ 次の季節にまた蕾が膨らむ。
人の命も 関係も 感情も
永遠ではないからこそ いまこの瞬間を大切にできるのです。
誰かを失ったあと ふとその人の優しさに気づく。
失敗したあと 自分の慢心を知る。
孤独の中で 本当に大切なものに目覚める。
私たちには「失って初めて、得られる真実」があるのです。
失う前は当たり前だった景色。
何気ない日常のありがたさ。
生きているだけで 周りの人が笑ってくれること。
それらに気づけた瞬間
心の中に小さな灯りがともるような感覚があります。
それは「物質」ではなく
「気づき」という心の財産です。
仏教ではこれを「法(ほう)を得る」 とも言います。
つまり 何かを失ったことを通じて 心に“智慧”が宿るということです。
もしも両手が何かでいっぱいにふさがっていたら
新しいものを受け取ることはできません。
手放すからこそ 空間が生まれ
そこに新しい風が吹いてくるのです。
たとえば 過去の執着を手放したら 新しい人間関係が始まった。
古い価値観を手放したら 心が自由になった。
プライドを手放したら 人に頭を下げられた。
頭を下げたら 信頼が戻ってきた。
これは決して 何かを「犠牲にして得る」という取引ではありません。
むしろ、本当に大切なものに気づくために
古い“殻”が壊れていくということです。
人生とは そんな「壊れていくこと」と
「生まれ変わること」の繰り返しなのかもしれません。
しかし 私たちが最も恐れているのは「変わってしまうこと」。
関係が変わる。
環境が変わる。
自分自身が変わってしまうこと。
でも 変わらないものなんて 実は一つもないのです。
お釈迦さまは
この世を「すべては流れゆく川のようなもの」と例えられました。
流れに逆らうと 苦しみになります。
でも 流れに身を任せると
次第に“運ばれている”ことに気づきます。
そしてある時ふと、こう思える瞬間が来るのです。
「あのとき、失ったからこそ、今の私がいるのだ」
確かに「失うこと」は 苦しいもの。悲しいもの。
簡単に受け入れられるものではありません。
でも だからこそ 私たちは祈ります。
涙を流し 合掌し 手を合わせる。
失った大切な存在を通して 自分の生き方を見つめ直す。
そしてもう一度 こう問いかけるのです。
「私は、これから何を得て生きていくのか」
お釈迦さまは
「失うことは、悪いことではない」 と教えてくれます。
それはむしろ 目覚めへの扉なのです。
今日 もしあなたが何かを失ったと感じているなら
その心の空白に やさしい光が差し込みますように。
そして そこからまた何かを得て、生きていけますように。
合掌